量産型無気力人間頂かれ候補の僕が見つけた面白いドラマ
最近、無気力で日々を過ごしている自分は、このままだと頂き女子がターゲットにしている人物像に近づきつつあるのではないかという不安を抱え生きている。人生に夢や希望はなく、毎日仕事に行って帰って寝るだけの繰り返し。こんな大人になりたくたいと思っていたのに、気づけばそんな大人になっている。僕以外にもそんな人は案外どこにでもいるものなのだろう。
ということで、今回話したいドラマは「量産型リコ-プラモ女子の人生組み立て記-」。将来の夢や希望はなく、これまでの人生で心の底から熱中したものはない。なんとなく、ただ給料が貰えればそれでいいと思い働いている人間、いわゆる量産型女子の主人合、小向璃子がプラモデルを自分の手で作ることで、プラモに鼻血が出るくらい熱中するようになり、プラモを通してさまざまな人とつながっていくホビー・ヒューマンドラマである。現在8話まで視聴済み。第2、第3シーズンと続いているが、今回は第1シーズンの感想だけに留める。
・おもしろポイントその1 1話の掴みが良い。
生きる目的や希望を持たない量産型の主人公リコ。そんな彼女がたまたま会社の近くにある模型店に立ちより、プラモデルと出会う、それが第一話の冒頭。そこで彼女はプラモデルを作ることになる。彼女が作るのはガンダムシリーズの量産型ザク。量産型と言われた主人公リコが量産型ザクを自分の手で作り、量産型には量産型の良さがあることに気づく。そして、量産型だと同期に馬鹿にされていた主人公が、量産型である自分を肯定するところから物語が始まる。重要なのは量産型な自分を肯定するというところ
・ポイントその2 おじさん世代よりも若者世代に見てほしい内容
このドラマを見ている人は、プラモが好きなおじさんか、乃木坂が好きなアイドルオタクだけだと思う。それは言い過ぎだが、単純に話が面白いのでおじさん以外の人たちにも見てほしい。現に僕もプラモデルに一切触れたことがない22歳だがこのドラマを面白いと思った。むしろおじさん世代よりも若者世代に刺さる内容のようにも思う。「残業は人生で一番無駄な時間」というリコのセリフがあったり、若者が共感できるところも多く見られた。また、プラモデル以外の内容から、おじさん臭さは感じなかったので、若者も嫌悪感なく見られると思う。
・ポイントその3 EDが素晴らしい
個人的には一番熱量を持って話したい部分。毎話毎話エンディングは変わるのだが、基本的な構成は変わらない。最近見たアニメだと、スパイファミリー2期のEDや古見さん2期のEDをイメージしてもらうと分かりやすい。あんな感じで、一つの画のなかで服装のキャラクターが全く別の動きをするわちゃわちゃエンディング。こういうタイプのエンディングは、それぞれのキャラクターの性格や魅力が短い時間で分かるようになっていて、そこが好き。また、LINKL PLANETが歌うED曲もドラマとマッチしていて良い。毎回EDを見ているとノスタルジックというか少し感傷的な気持ちになってしまう。多分僕だけだと思うが。
口コミを見ているとシーズン2の評判はあまりよくないみたいだ。だが、実際に見てみないと自分の意見にはならないので、シーズン2、そしてこれから始まるシーズン3も見る予定だ。
では。
社会への不満
自分なりの頑張りと社会が評価する頑張りに差があるのがつらい。一瞬だけを切り取って、その人を見て何が評価できるのだろうか。
就活だってそうだ。その人が今までの人生で、何を考え、何を思い、生きているのか。何に喜びを感じ、何に不満を感じ生きているのか。それがたかだか30分や1時間で分かるはずがないのである。
それなのに、「笑顔」「はきはきと喋れている」「人の目を見て話す」、そのような表面上だけで分かることで人を評価する。そんな前提のことできて当たり前だと言われるかもしれないが、多くの人が当たり前にできることでも、それが当たり前にできない人だって存在する。
笑顔が苦手で、それが自分の中で課題だと認識し、改善しようと努力しているが、それがうまく結果としてでない。そんな人もいるだろうに。だが社会はそんなところは見ようともせず、瞬間だけを切り取り、あの学生は笑顔ができていなかったと言って落とす。その人がどんな思いで自分と向き合っているかを考えようともせずに。そんな社会に私は不満を感じてしまう。
社会には、点ではなく線で人を見てほしい。
ドラマ「好きなオトコと別れたい」3話感想
この回を見て、このドラマ面白い!と思ったので、感想を書くことにした。この回だけで綺麗にまとまっていて、見ていて良いなと思える所が複数あった。
感想の前に軽く、概要について説明。
漫画原作。堀田茜演じる主人公が郁子が、毎熊克哉演じるダメ男の浩次と別れたくても、浩次の魅力に惹かれ抜け出せないでいる…というラブストーリー。
この回は郁子のヒモである浩次の人としての魅力、そしてそんな浩次となぜ郁子が付き合っているのかが、一話を通して描かれている。浩次の魅力とは、誰とも仲良くなることができる子供のような大人であるという所だ。序盤のハローハークの場面。この場面において、重要なのは、ハローワーク職員の梅金がキレタ後の浩次の対応だ。浩次はラーメンのシミをきっかけに梅金と仲良くなる。ハローワークの職員だろうが誰だろうが簡単に仲良くなれる浩次の魅力が描かれているのだ。そしてこのラーメンのシミは、デートのシーンでもう一度出てくる。せっかく買ったばかりのスーツに浩次がラーメンの汁を飛ばしてしまい郁子に怒られてしまうという場面。なぜラーメンの汁のくだりを二回持ってきたのか。恐らくだが浩次がラーメンの汁を飛ばして郁子に怒られるのはよくあることなのだろう。そして、このように何回も郁子に注意されたことがある浩次だからこそ、梅金のスーツのラーメンのシミに気付けたということなのだろう。考えすぎかもしれないが…
紺野彩花演じる主人公の後輩のナナのシーンのところが生々しかった。ナナの彼氏は売れないバンドマンで恐らく公園でろくにご飯も食べずに一日を過ごしているのに対して、彼女は会社の上司と高級ランチ。旦那の昼飯は安く済ませているのに自分だけママ友と高級ランチに行くみたいな女性の悪い所が出ているように思えてしまった。本当にナナは彼氏と顔で付き合っているんだなと感じた。後、浩次たちが妙に大人じみている子供たちと話すシーンを見ていると、最近の子供は、大人に対する漠然とした憧れみたいなものを持っていないんじゃないのかと考えてしまった。
閑話休題。このドラマに登場するキャラクターは全員が完璧では無い。口では浩次に対しての不満を言うが、心では浩次のことが好きで別れる気配のない郁子。働く働くと口では言いながらも一向に働く気配のない浩次。もうすぐ30になるのにヒモと付き合っていても、最終的にはエリートと結婚できるということ郁子で証明することで、自分はまだ大丈夫だと安心したいナナ。それぞれがそれぞれに駄目なところがある。そこがこのドラマの良いところなのである。完璧な人間などいないし、人間ってそんなもんだよなとこのドラマを見ると思わせてくれる。(最近だと、完璧な人間などいないことを大谷翔平が証明してくれた。)
最後に自分が一番好きだったところ。バーで三四郎の相田が浩次のことを褒めるシーン。基本的に浩次は、働きもせずヒモをしているダメなやつだが、そんな浩次を「お金を稼ぐのが下手な人」と表現しているのが個人的には凄く好きだった。働いている人たちは働いていない人たちを見て、「社会のはみ出しモノ」「甘えている」などのレッテルを貼り、全否定するだろう。しかし、この作品はそんなことをしていない。駄目な所もあれば、良い所もある。そういう表現をしてくれるこの作品が面白いと思ったし、好きだと思った。
自分の感性が男性よりも女性に近いのでは。という話
私は男だが、このように思うことがよくある。
ここでいう感性とは、どのようなキャラクターに魅力を感じるのかということだ。
私はアニメが好きでよく見るのだが、このキャラクターいいなと感じたキャラクターに限って女性人気が高いキャラクターであったということがよくある。初めは、偶然だと思っていたが、それが二、三回続いたので、「自分は女性と感性が近いのだろうか」と思うようになった。ただ、自分が好きになるキャラクターが、女性人気のあるキャラクターというだけの話なのだが。
現時点では、私にBLの趣味があるわけではないし、興味があるわけでもない。
あくまで、感性が近いだけなのである。
なぜ、自分の感性が女性と近いのか疑問に思ったこともあるのだが、そこに明確な答えが出ることは無いと思っている。
話は飛躍する。
感性が近いということは、もしかすると、私が女性に生まれていたら、今よりも生きやすい人生を送れていたのだろうかと考えた。
この感性を持ち、男性として生きているから、生きづらさを感じてしまうのか。
とすると、この感性のまま、私が女性の目線で世界を見ると、そこに広がるのは希望なのだろうか。
何の話がしたかったのか分からなくなってきたので、この辺りで終わりにする。
ブログアイコンはカマキリ
おう なつだぜ
おれは げんきだぜ
というわけで、今回はカマキリの話だ。
私のブログアイコン、小さいと分かりづらいが、カマキリの写真なのだ。この写真は私のお気に入りの一枚である。
5、6年前に耳鼻科に行くときに撮った写真で、たまたま私の自転車にカマキリが張り付いていた。

このカマキリのアホ面が可愛い。
コロナ禍を乗り越えられていない自分
はじめまして。
今回は2020年に大学に入学してから、私がどんなことを考えて、四年間の大学生活を終えたのかを書いていく。主にタグに関連する悩み。
4月から社会人なので、一つの区切りという意味で、3月までに公開したいと思っていた。(思っていただけになってしまったが)
私が大学に入学したのは、2020年の4月で、私たちの学年はコロナ直撃世代と言える。
4月から5月の一ヶ月間は、コロナの影響で授業は受けられず、5月から学校が始まったと思ったら、次はオンライン。
家に籠って、パソコンに向かって授業を受ける日々が二年続いた。
やっと、大学に行けるようになったのが2022年の4月。私が大学三回生の時だった。コロナによって自由に行動することが出来ず、自分のやりたかったことが思うように出来なかった。コロナによって閉塞感を抱える日々を過ごしていた。このような経験は私以外の人もしているはず。
だが、私が疑問に思っているのは、世間は私たちのような人たちを一括りにして、コロナ禍を乗り越えた人々としているのではないかということである。
この間大学の卒業式に行ってきた。そこで私が所属していたゼミの先生が最後にありがたい話(先生が自分で言っていた)をしてくれた。
僕は君たちのことを、コロナ禍を一緒に試行錯誤しながら乗り越えてきた戦友だと思っている。的なことを。
嬉しくも思い、同時に疑問も感じた。
果たして私自身はコロナ禍を乗り越えられたのだろうか、と。
そんな風には思えていない。
ニュースなどで、「コロナ禍を乗り越えた」という言葉を見ると、私一人だけがコロナ禍の中に取り残され、私以外の全ての人がコロナ禍を乗り越えたかのように思えてしまう。
というのも、話は、卒業式から就活に戻る。
やっと大学に行けるようになった三回生の私たちの前にあったのは、就職活動だった。
就活のガイダンスへ行き、適性検査やインターンシップのことを考えろと言われる。当時の私は、目の前の現状に対して、気持ちがついていかなかった。
にも関わらず、周りを見ると普通に就職活動を行なっている。当たり前だろと思われるかもしれないが、私にとって大学生活最初の二年間はあってなかったようなものだったので、周りが当たり前のように就職活動を行っているのを見て、戸惑っていた。
皆は、私と同じように考えていないのだろうか。
こんなことを考えているのは私だけなのだろうか。
そんな風に思っていた。
コロナ全盛期(2020~2021)→コロナ落ち着く(2022~)≒就活(2022/三回生)
自分の感覚としてはこんな感じ。
切り替えが上手くできないまま、就活を進め、鬱屈とした感情を抱えたまま社会人になる。
大学に行けたことに関しては、本当に良かったと思っている。
自分が学びたい、面白いと思ったものと向き合えた時間だと思っている。
でも、心に穴が空いているように感じるのもまた事実なのだ。
ここまで、だらだらと書いてきたが、4月から私も社会人。こんなことを考えていようが、いまいが、社会に出れば皆等しい労働力である。なので、働かざるを得ないわけだ。
果たして、今もずっと胸に残っているモヤモヤしたものが無くなる日はくるのか。
私がコロナ禍を乗り越えられる日はくるのか。
「知らねえよ」と思われたらそれまでだが、そういう風に考えている人も世の中にはいる。
だが、こんな風に考えてしまう自分も変わっているとは思うが。